第1次世界大戦に対する評価からの引用

 小泉改革とは何だったのか=伊藤智永(政治部)−記者の目:MSN毎日インタラクティブ を読んで。

 何故、私たちが決断、単純化、そして号令に応えたかについて、ジョージ・F・ケナン『アメリカ外交50年』(第一部 第四章 第1次世界大戦)の文中から文章を引用します。一つの見解、理解への助けにはなると思います。

 これら最近の戦争における体験に基づいて、われわれは、人間性についてある悲しむべき結論をもたざるを得なかった。その一つは、苦難は必ずしも人間を良くしないということであり、他は、国民というものは政府より合理的であるとは限らないこと、世論ないしは世論と呼ばれるものは、政治のジャングルの中でいつも鎮静剤の役割を果たすとは限らないことである。<中略>
 真理というものは複雑で、決して人を満足させず、ディレンマに充ちており、常に誤解され濫用されやすいものなので、観念の市場で競争するには、往々にして不利な立場に立っている。短慮と憎悪に基づく意見は、常に最も粗野な安っぽいシンボルの助けを借りることができるが、節度ある意見というものは、感情的なものに比べて複雑な理由に基づいており、説明することが困難なような理由に基づいている。そこで、盲目的愛国主義者というものは、いついかなる場所を問わず、己が命ずる道を突進してゆくだけであり、安価な成果をつみとり、他日誰かの犠牲においてその日限りの矮小な勝利を刈り取り、それをさえぎる者は誰であろうと大声で罵倒し、人類の進歩を待望しながら傍若無人の踊りをおどって、民主的制度の妥当性に大いなる疑惑の影を投げかけるのである。そして人びとが、大衆の感情を煽動したり、憎悪、猜疑、および狭量の種を播くこと自体を、犯罪としておそらく民主的政府擁護に対する最悪の裏切り行為として摘発することを学ばないかぎり、このようなことは、今後も引き続いて起こるであろう。

 『アメリカ外交50年』 岩波現代文庫 pp.92-93 *1

 今後、しばらくはその「単純な手法」は通用しなくなると思う。二度目は飽きられ、そのうち嫌悪される。後任者が真似をするならば、前任者以上の能力が要求される。政略、手段としてその限りにおいては巧みなものであった手法も、よりつまらない、機微を捉えないものに変わればマイナスになる。そればかりか、上記の引用にあるような考えや警句の助けを借りて、民主的な政治に対する裏切り行為と見做され、デマゴーグとして摘発される対象ともなりかねない。ただでさえ、現在少なくない人の内心に、その手段に対する自然な反動や反感を形成しているのだ。こういった自然な反発心は、恐らくいかなる政治的手段を用いる場合であっても避けられない。
 号令するべき、「時間をかけて設計され準備された現実的な政策」はもうない。空疎な号令だけで、しかも冷静に見直されつつある手法を使って、それではたしてうまくいくのだろうか。
 また、民主主義においては、役を終えた政治家が使い捨てにされることが往々にしてある。それならば、もう出番が終わった役を、別の役者が演じてどうなるのだろうかと私は思う。一連の政治上の流れは、客観的な観察、そして記事の考察によれば行政改革として完成しつつあるように見える。決断されたが為に、それによって完結させられて一つの政策として終わりつつある。確かに彼はその役割に選ばれて決定した。ただ、決定するのみに留まった事は彼自身の賢明さであり、私たちにとっての幸運だったのではないだろうか。彼の役割は、それまでだったのだから。逆説的に言えば、役割の範囲に留まったからこそ多大な成功を得たともいえるのだろう。
 そして、「このようなことは、今後も引き続いて起こるであろう」し、その度に繰り返し排除されていくのだろう。

 (文章途中につき、改変の可能性あり。)

*1:George F. Kennan, American Diplomacy, Expanded Edition., University of Chicago Press, 1984.(近藤晋一・飯田藤次・有賀貞訳 『アメリカ外交50年』 岩波書店, 2000年)